ラッキージュース

ポジティブな思考で後悔の少ない人生に

死について真剣に考えた

おはようございます。

 

いつも、おはようございますから書き始めているから、どんな時の挨拶でもおはようが定着してしてしまいました。

 

ま、そんな余談は置いといて、今回話していく話題は、死について。

 

私自身、死について考えることがあっても、それが上手く言語化できていないので、このラッキージュースを使ってうまく言語に出来るように書いてみる。

 

今後の構成として、

最初に、なんで死についてかんがえるようになったのか。

次に、その結果、何を考えるのか。

最後に、死とは何かについて考えた。

 

では、死について書いていく。

 

まずは、なんで私は死について考えているのか。

 

ぶっちゃけ、20代の前半だし、ある程度は健常者だし、ありがたいことに病気には強い方の体だから、ここ10年以内に死ぬ可能性はかなり低いと思う。10年と言わず、もっと先の人生も余裕で生きられるくらいの身体だと思う。

 

けど、なんでそんな私が死について考えているのか、その大きな原因になっていることが2つあると私は思ってる。

1つは、特攻隊に関する知識が付いたこと。

2つは、祖母の介護をしていること。

この2つは、その原因に間違いなくなっていると思う。

 

1つ目の特攻隊に関しての知識、これは遡れば中学生の頃。テレビで岡田准一さん主演の「永遠の0」を見た。それにすごい影響を受けたのは今でも覚えている。特攻隊員の真似とかをしてたもんな。んで本も買った。

そして月日はだいぶ流れて大学3年の春。知覧に行った。ここは特攻の町と知られ、知覧特攻平和会館がある。ここでも、すごい衝撃を受けたのを覚えている。っていうのも、知覧に行く前に、「特攻のすべて」みたいな本を読んで事前学習していた。だから、その平和会館で見る数々のモノが頭の中にあったその本の文字を、実際の画像や映像に替えたもんだから、特攻に関する知識が昔より付いた。

長くは書かないけど、死ぬことと隣り合わせの中で生きていた同年代の人たちがいたことを深く知り、私自身の死も決して遠いことではないことを感じた。

 

2つ目の祖母の介護は、死への恐怖感を私に植え付けている。

週に1度、介護しに祖母の家に行くんだけど、こうはなりたくないと強く思ってしまう。だいぶ不謹慎な発言かもしれないけど、本音で書きたいから許して。

彼女の昔の元気な姿を知っているから、衰えや死期に近づく姿を見ると、死ぬことが恐ろしく怖いものだと実体験を通してより感じるようになった。

だが、生きている以上死ぬこと自体は避けることができない、ではどうするか。その答えを探しているが故に、死について考えることがあるのかな。

 

他にも多かれ少なかれ私に死について考えさせる影響を与えたことはあると思うが、以上の2つが大きい。

 

 

 

そして、死について考えている結果、どんな考えに至ったのか。

 

死について考えた結果、私は楽しさ第一主義みたいな考えに今のところ行きついている。楽しさ第一主義とは、私のつくった言葉だけど、ある選択肢に迷った時、より多くの楽しさがある方を選択する考え。説明が下手くそだけど、楽しい方が人生良いよねってことかな。

私は昔から楽しいこと=好きなことだったから、その好きなことをするのが死ぬ前にするべきことだよねという、誰でも思いつくような結論に至ってる。

もう一度言うね、「どうせ死ぬなら、好きなことをしたいよね」、それだけ。

直感的にそらそうよね。いつかは死ぬのに嫌なことするのっておかしな話だよな。

 

でも、ここからの方が大事かな。

好きなことをずっとできるのか。好きなことだけをずっとしてればよいのか。嫌いなことは一切しない方がよいのか。

この答えが明確じゃないから、未だに就活という次なる進路に足踏みしてる。好きなことを仕事にする。とりあえずはこれを目標に好きなことを突き詰める。

これから始める仕事を好きなことにする、これも悪くない選択肢だと思う。

とはいえ、この好きなこととの関り方の正解が未だ分からない。

 

死について考えた結果、好きなこととはどのように関わり生きていれば良いのだろうという考えに至る。

 

 

 

最後に、死とは何かについて。

 

私の考える、私自身の死の定義を考える。前提として、私ラッキージュースの死がこの定義なだけであって、他の人はこれに当てはまるわけでは無い。

私の死は、自由に歩けない、自由に話せないが、両方できなくなることかな。

 

仮にこの状態でも、心臓が動いていたり脳も生きていたとしても、生きる意味がない。心優しき他人が、「あなた(私)が生きていることそれ自体が価値だよ」ってそんな状態の私に言ってくれるかもしれないけど、他人のために生きているわけじゃないし、その状態で生きている私は生かされているような感覚になってると思う。

生きるという生き物として絶対に能動的であるべき動詞が、受動態になったらその生き物はもはや生き物じゃない。

それは、人が水をあげて成長している屋内の花と同じ。雨には触れず、人間頼み。ミツバチが受粉しに来ても、人によってそれは追い払われ、枯れたら終わり。所詮、その花は生き物では無く、観賞用としての価値。その花の生きる意味なんて何一つとして無い。

 

人として生きる意味、それは自由に歩けて自由に話せること。私にとって、そのどちらも失うことは、死ぬことに同じ。その状態でも生かされるなら死んだ方が良い。

 

だから、私は能動的に生きよう。

 

 

 

 

まとめる。

死について考えるきっかけは、特攻と介護による実体験からきた。死を考えると、好きなことをして生きるべきだという結論に至った。そして、私の死の定義を考えると、能動的に生きるべきだということが分かった。

 

死について真剣に考えることは、当たり前のことを思い出すきっかけになる。そう思う。

 

じゃまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の余談「ウクレレ

私のことを良く知る人は分かると思うが、私の芸術的センスはかなり乏しい。

美術書道音楽等々、そんな私が最近楽器を始めました。

それこそ、ウクレレです。

まだまだ初心者も初心者で、へたっぴですが、楽しく真剣に練習しています。

今後の成長を楽しみにしてください(笑)