おはようございます。
8月30日です。もう8月が過ぎようとしている。
個人的な時間感覚の話なんだが、8月もあっという間に過ぎ去ろうとしている。
正に、光陰矢の如し。
このことわざは、部活もサークルも何もやってないが、やりたい事は湧き出てくるような、そんな文系大学生の8月の夏休みを指すのだろうか。
は?
さて、今日は短めの投稿をしようと思う。
しかし、内容は私の思想をゴリゴリに入れ込んだ宗教じみたもの。
皆さんは、「そんな考え方もあるんだな」程度に聞いてもらいたい。
では、書いていきます。
「『隣の芝生も青い』という考え方」です。
「隣の芝生は青い」という言葉はご存知だろうか。知ってる人がほとんどだろうけど、誤解が無いようにこの言葉の意味を書くと、自分よりも他人がよく見える心理、という意味だそう。
自分よりも、他の人が優れていると感じてしまう事、と言い換えることもできるだろう。
ま、この心理は誰にでもあると思う。
私にもあるし、この読者さんのあなたにもこのように考えてしまうことはきっとあると思う。
しかし!
しかし、私は言いたいのよ。
「自身の芝生も青いぞ」と。
あなた自身が他の人を優れていると感じるように、あなた自身も他の人から優れていると感じられている。
隣の芝生ばかりを気にして、自分を卑下するのはおかしい。自分自身も十分に優れている。って言いたいのよ。
要は自分自身の優れていることに気付けるか。なんよね。
隣の芝生も青い、つまり、自分自身の芝生も青い事に気付けるか。これが大切だと私は思う。
んでさ、思うのがさ、謙虚と卑下がごちゃごちゃになってる人多いと思うんよ。
最初は謙虚なつもりで使っていた言葉が、使い続けるうちに、その言葉が自分の卑下となり、アイデンティティになっちゃう気がするんよね。
実際に、最初は謙虚なつもりで使っていた言葉を私で例えると、「勉強が苦手です」とかかな。
私は、私の住む県では、正直言って半数よりは上の偏差値の高校に進学できたから、勉強が苦手ではないんよ。けど、この言葉を謙虚な言葉として繰り返していくうちに、実際にも勉強が苦手になっちゃう気がする。「どうせ私が勉強したところで、大した成果は得られない」、こんな考えに至っちゃう気がするのよ。
他にも、「恋愛は苦手です」とか。
中学や高校はそんな事思ったこと無かったけど、この言葉を使っていくうちに本当にそうなって行ってる気もしなくもないのよね。
話が脱線しかけているので戻すけど、
隣の芝生は青いのではなく、自分自身の芝生も青いことに気付くことが大切だよ、ってこと。
また、自分自身に謙虚になることは、自分自身を卑下する事に繋がりかねないよ、ってこと。
だから、自分自身の優れていることや自分自身の素晴らしさに気づき、それを理解すること。これが大切なんじゃないかなと私は思う。
私やあなた、そして誰にでもコンプレックスや悩みはある。それは人として生きているのであれば、当たり前のこと。
そんな悩みを無くすのはほぼ不可能だから、逆に自分の優れているところにも目を向けて生きていこうよ、そんな事を言いたいわけだ。
ま、自分らしさを大切にして生きていきたい、そんな事を言いたいのよ。
あなたにはあなたしか持っていない素晴らしさがある、そんな事を言いたいのよね。うん。
隣の芝生も、あなたように、青いんだよって事を言いたい投稿でした。
じゃまた。